当ブログにお越し頂き、ありがとうございます。
優雅に泳ぐ錦鯉は、「生きる芸術」「泳ぐ宝石」
ともたたえられます。
色鮮やかな体色が錦に例えられ、
新潟県で品種改良や養殖が進んだ錦鯉を
日本の国魚にしようという話もあります。
今日は、そんな錦鯉のことについて書きたいと思います。
ただ、歴史を詳しく書きすぎてしまって、
文字数が多くなってしまいました。
適当に飛ばして読んで下さって結構ですので・・・
昭和初期の日本では、
庭の池で泳ぐ錦鯉が豊かさの象徴だったようです。
しかし、現在は都市集中による住宅の狭小化、
集合住宅化が進んだこともあり、
錦鯉を見かけることは少なくなりました。
しかし近年は、世界の富裕層に人気があり輸出が好調です。
錦鯉の最高値
世界の富裕層に人気の錦鯉の最高値は、
どれくらいだったのでしょうか?
オークションンが開催されました。
オランダやドイツなど海外のディーラーが集まった会場は
熱気に包まれ、価格はみるみる上がっていったようです。
その結果、落札額は史上最高値の2億300万円の値がつきました。
歴史的な高値をつけた錦鯉の名前は「Sレジェンド」で、
阪井養殖場で育てられました。
「Sレジェンド」は、台湾の方に落札され、所有権は移りました。
錦鯉の価値
錦鯉は通常、年間7センチ体長が伸びるそうですが、
「Sレジェンド」は2倍の14センチ成長し、
9年後には1メートルを超えたそうです。
体重は45キロの特大級です。
錦鯉の価値は、大きさや模様、色の鮮やかさ、
頭からしっぽの形などで評価されるそうです。
愛好家たちが大金を払うのは、品評会で自分の持っているコイが
高い評価得る名誉のためだそうです。
(タウンネット・ライター:tama35引用)
錦鯉の歴史
歴史を詳しく書き過ぎてしまったので、興味のない方は飛ばして下さい。
錦鯉の誕生
錦鯉が全国区になったのは、
1914年(大正3年)の東京大正博覧会で、「越後の代わり鯉(変鯉)」
として紹介されたのがきっかけでした。
他に、「色鯉」「花鯉」「模様鯉」などとよばれましたが、
昭和10年代に「錦鯉」という呼び名が広く浸透しました。
我が国における鯉養殖は、最も古い文献は日本書紀(720年)の中に
影行天皇の4年(94年)に天皇が美濃の国詠宮(くくりのみや)の池で
鯉の泳ぐ姿を鑑賞されたと記されています。
推古天皇(620年)も大和飛鳥川のほとりにある曽我馬子の庭園で、
泳ぐ鯉をご覧になったという文の下りがあると、伝えられています。
江戸時代になるまでは、全くの空白で文献が見つかっていません。
本草和名(1796年)に赤、青、黒、白鯉と記載されており、
これは緋鯉、真鯉、色無地鯉のことで、
これらは真鯉の中から突然変異として出現したもので、
後の世に錦鯉を誕生させる鍵になてっています。
錦鯉発症の地
錦鯉の発症の地山越郷は、古志郡と北魚沼郡の接する
最も雪深い山間地であり、ここに住む人たちにとって食用鯉は
貴重な蛋白源で、竜は農業用の溜池で育て孵化した稚魚は、
水田養魚によって育成し種苗を確保していました。
昭和45年頃からの米の生産調整政策で水田で米を作らずに
養殖池として転用され、手ごろな大きさに成長すると、
降雪前に食用として売買されていました。
食用の全てが真鯉で、真鯉には3種類の品種があり、
この地方では浅黄真鯉がほとんどでした。
江戸時代
突然変異によって江戸時代の後半に
青い鯉が生まれ、これが浅黄と呼ぶ錦鯉の原種でした。
食用として飼われていた鉄真鯉が近親交配される中で、
江戸時代の末期、文政の頃(1818年~1829年)突然変異として
白色化した水浅黄と緋鯉の中から白い肌に赤い鱗の並ぶ
「鹿の子」が出現しました。
紅白(ウィキペディア引用)
明治時代
明治に入ってから、背に赤斑の浮かぶ更紗と呼ばれる
頭半分が紅い「頭巾かぶり」と呼ばれる口の周りが紅い
「口紅」が出現しています。
明治7年~8年(1874年~1875年)紅白種の素地らしい薄紅の型取りを
したものが現れ、地域に分散します。
大正時代
紅白が完成し、紅白を片親として、赤黒斑の別甲が交配され
また紅白の中から紅い鱗を藍衣と黒い緑取りの黒衣等が生まれ、
品種を多用にしてきました。
錦鯉の品種改良途上には、ドイツの鯉との交配が
成功したことにあります。
ドイツ種と浅黄を交配できたのが「秋翠(しゅうすい)」であり、
秋翠と紅白と大正三色とを交配することで紅白(ドイツ紅白)が
作出されました。
ドイツ特有の鏡鱗(半月型)は強い遺伝力があり、
全ての品種に確実にその形質が伝わっています。
黄金(ウィキペディア引用)
昭和時代
昭和22年新潟県古い群竹沢村(現長岡村)で、
胸鰭が金箔の舞扇のように輝く黄金鯉が作出されました。
この黄金の鯉の血液を受けて、改良された品種は26種に及びます。
また、金銀鱗の固定によって、一層華麗に錦鯉を変身させました。
昭和40年代、広島県の上寺氏等によって、
従来の銀鱗には見られない
全身に鱗を金色や銀となって輝く新種が固定されました。
多くの生産者が銀鱗を品種改良に取り入れ、
改良の速度を加算させました。 (全日本錦鯉振興会引用)
海外輸出が急伸
海外輸出が急伸したのは、21世紀に入ってからです。
財務省の貿易統計によると、金魚を除いた錦鯉などの
鑑賞用の輸出額は、2000年頃までは10臆円程度だったのが、
2019年には47,2臆円と5倍近くまで上昇しています。
東南アジア圏では"Nishikigoi"の人気により、
日本語の"koi"は、錦鯉のことを指し、
英語における"Carp"とは別物として浸透しています。
新潟県錦鯉品評会
毎年11月に開催される「新潟県錦鯉品評会」 の会場には、
青いビニールプールがずらりと並んでいます。
錦鯉は庭園などの広い池で優雅に泳ぐものなので、
見下ろした際の色彩、模様、体系の良さで決まるため、
上から覗き込むように展示してあるのです。
新潟県は、錦鯉発祥の地で、現在も養鯉(ようり)業者が300以上という
日本最大の生産地です。
錦鯉品評会は2020年で60回目を迎えました。
世界最大級の規模を誇り、82業者が合計753尾を出品しました。
例年は1000人以上のバイヤーや愛好家が集まりますが、
コロナ禍のため、海外からの参加者は少なかったようです。
人気の御三家
特に人気が高く、錦鯉の御三家と呼ばれています。
海外では和風の御三家よりも、
金色や銀色のゴージャスな錦鯉が好まれそうですが、
最初はそうでも、やっぱり御三家に行き着くそうです。
御三家は、色や模様の個体差が大きく、
年齢に応じて変化していきます。
予想をし、成長を見守るのがだいご味のようです。
国内での普及が課題
日本の愛好家が高齢化しているのに対し、
海外では若い世代の錦鯉のファンも多いと言うことで、
ブームはまだ続きそうです。
養鯉業では将来の担い手が豊富です。
日比の地道な飼育業に加え、交配には施行錯誤や
芸術的なセンスも必要な仕事ですが、世界中を相手にし、
成果を出せば大金も稼げるため、魅力的な就職先になっています。
しかし、国内では錦鯉の素晴らしさが忘れられつつあります。
日本ではお金持ちの道楽的なイメージが抜けないためです。
錦鯉は水槽でも育てられ、数百円から買えるのので
もっと多くに人に親しまても良いはずなのです。
鯉は飼育環境に合わせて大きくなるので、
一般家庭の水槽で飼えば、小さいまま楽しむことも出来ます。
実際、欧州では数千円のものがよく売れており、
子供が餌やりを担当するなどして、
家族全員でペットとして育てている場合が多いそうです。
優秀な鯉が大量に流出していることで、
海外の養殖レベルも高くなっています。
中国で錦鯉が空前のブーム
中国では最近錦鯉が空前のブームになっています。
中国の2018年度流行語大賞ベスト10では、
「錦鯉」がトップになりました。
中国ネット通販大手「アリババ」の決済サービス・アリペイが
公式ウェイボーアカウントで、書き込みを転載して当たれば
「中国錦鯉になれる」というキャンペーンを実施したことから
300万回以上のリツイートと2億超えのアクセスを記録しています。
当選したユーザーは、多額の賞金と商品を獲得。
このため、アリペイの「中国錦鯉」は「強運の持ち主」
という意味に転じて、
大盛り上がりのキャンペーンになりました。(トータルクリーン引用)
日本のレベルとはまだ差がありますが、
特に中国の養殖業者は、将来強力なライバルになりそうです。
海外での需要が拡大している今だからこそ、
国内でも日本の宝として再評価され、
関心が高まることが期待されています。 (nippon・com引用)
最後に
錦鯉の記事を書いていて思ったのは・・・
真鯉の突然変異を見つけたところから鯉の品種改良を重ね、
現在の「泳ぐ宝石」とまで言わしめるところにまで行く着くところに、
日本人気質を感じました。
地道に研究を重ね、試行錯誤しながら極めていく、
日本人の真面目さと探求心が、
錦鯉の美しさに凝縮されている気がしました。
最近の錦鯉の話題は、「輸出が好調」なことや
「高額取引」などに注目が集まりがちで、
一般の人達に、もっと鯉に親しむことは忘れさられていました。
水槽で飼えば、そんなに大きくならないことなどを、
もっと知ってもらう必要があります。
錦鯉はどうしても、お金持ちの庭の池で泳いでいるイメージが
抜けないのは、ゲラチーだけでしょうか?
錦鯉水槽で飼ってみたくなりました。笑
貴重な時間を使って頂き、ありがとうございました。
(ウィキペディア引用)